合唱コンクールの教育意図

高校で歌を教え始めてから7年目です。合唱コンクールの指導や審査を任せていただいて6年目。

声をかけてくださった先生から、「この学校で合唱コンクールを開きたい。その足がかりにしたいと思っています」という熱い思いを聞いたとき、「いいですね!」とは答えましたが、今、感じているような本当の教育意図はまったく理解できていなかったと思います。

簡単に思いつくこととしては、「音楽が人の心をゆたかにする」とか「声を出すことそのものが健康に良い」とか「クラス一丸となって取り組むこと」とか、「音楽の効果」や精神論などがあがると思います。

それとは別に、わたし自身が個人的に感じていることを書きたいと思います。

合唱コンクールの一番の教育効果は、わたしは「イヤでもなんでも、とにかくやるという経験ができること」だと思っています。

正直言って、わたしの合唱コンの思い出といえば、「好きでもない曲を歌わされた」とか「男子がダラダラしててイヤだった」とか、「やたら熱い子がうっとうしかった(ごめんなさい、思春期だったもので)」とか。似たような思い出の方も少なくないのではないでしょうか。

それでもなんでも、とにかく、時間になったら舞台に立ちますよね。適当でも熱くても、なんでもいいから曲が終われば出演は終了しますよね。

それこそが、まさに、人生の体験だと思うのです!!

人生は、「イヤでもやらなければならないこと」の連続です。時には、我慢に我慢を重ねて、一生懸命やらないといけない場合もあるかもしれませんが、どうしてもやる気も力も出ないときは、「時間さえやり過ごせばいずれ終わる」ことを知っていることも大切なのではないでしょうか。イヤだと主張して戦うのが必要なときもあるでしょうが、「やり過ごす」のもそれと同じくらい必要です。

合唱がなぜその経験に最適かというと、「最悪、口パクでも、参加したかのようにごまかせて大きな問題にならないから」です。

おまけとして、ものすごく嫌々だろうが、大勢で歌を歌うということは、予想外の気持ちよさや感動をちらっとでも呼び起こすことがあると思うのです。ほんの少しでも「まぁ、悪くはないな。」という気持ちが湧いたとしたら、それは「想像の段階では意味がないと思っていたことも、自分の予想外に良い結果が起こることもある」という貴重な体験です。その後の人生において、「意味がない」ことが「意味を生み出すかもしれない」、だから、まぁやっておこうか、という気持ちにつながることがあるかもしれません。それを知っているか知らないかは、大人になる要素として、とても大切なのではないでしょうか。

音楽的なことは関係なく、ただの体験だったらスポーツでも他の芸術でも良さそうですよね。合唱が最適な理由のひとつに、「全員が一斉にスタートして参加し、全員が一斉にゴールする」という点が挙げられると思います。(ここでは、よほどの例外は省かせていただいています)

また、これは何年も指導と審査をして知ったことですが、「クラス」という偶然の組み合わせの結果、奇跡的な音楽性を生み出すことがあるのです。また、いわゆる「クラス力」が直接、結果や勝敗に大きく影響します。

わたしは、シンプルに「合唱コンはクラス対抗勝負だから、つべこべ考えずに勝ちにいくんだよ」と教えています。うまいとか下手とかあんまり考えずに、「みんなで勝つぞー、オー!!」が結果を出すよ、と。作戦を立てなさい、とも教えます。本番近くに指導するときは、ピッチやリズムなどを音楽的に指導するより、作戦を立てさせてやる気を促した方が、いつの間にか音楽的に伸びていることがあることも知りました。

また、6年間教えてみて、やればやっただけ、学校全体で音楽的なレベルがいつの間にか上がっていることも知りました。これは、学校全体で「とにかく参加する」という状況を強制的に作らないと、実現することはできません。

そういうわけで、7年前は「そんなもんかな」と思った合唱コンクールでしたが、今では、全国のすべての学校で行うべきだと思っています。

ただし、教育意図や効果を正しく理解していないとおかしなことになると思います。「下手でもなんでも全員参加」と「勝敗は偶然と奇跡で決まる」ってことです。ピアノ伴奏も指揮も、公正に差をつけるべきだと思います。「がんばったから評価される」のは当たり前で、その上で技術の差を見極め、決断しなくてはいけません。なかなか辛いですが、最初から勝ち負けの大会だからと教えておけば、お互いに覚悟も決まると思いました。

以上、わたしが学ばせていただいたことです。

 

追記

 

2017年、今年も指導をさせていただきました。

一昨年、苦い思い出がありまして、ピアノ伴奏になった子が全然弾けてないクラスがありました。それでも、「全然だめじゃん、ちゃんと練習しなさい」というのは酷な気がして、何より「弾きたい」という気持ちや、クラスの子が全然責めもせずに温かく見守っている様子に感心して、一応のアドバイスはしましたが、「がんばる!!」というムードを応援していました。

そうしたら、本番の大舞台(そのときは中部地区合同でものすごい観客数、参加クラス数だったのです)で、ほとんど弾けずに終わってしまったのです。アカペラで歌い通しはしましたが、伴奏の子は号泣で崩れ落ちてしまいました。

そのとき、わたしはもっとわたしにできたことがあったんじゃないかなと、すごく反省しました。

 

今年、明らかに弾けていない子がいまして(そもそもA♭キーのすごく難しい譜面で、練習期間も短かったのです)、本番前日の時点で歌と全然合っていませんでした。

本人がヘラヘラと練習不足なのだとしたら、まぁ、それも審査対象に関わるのでしょうが、いろいろ聞いてみたら、どうもその子にはハードルが高すぎる大役らしいことが分かりました。

それで1日でできるハードルの対応策を与え、「ここまで歌と合っていないのに、ピアニストひとりの責任にして、「がんばれ、がんばれ、いいよ、いいよ」って言うのは、一見、優しさに見えて本当はすごく孤独にさせることなんだよ」と伝えました。クラスの子たちが伴奏の子に「ごめんね」と言って、抱き合って号泣していました。

今は、練習段階でピアニストにも指揮者にもけっこう厳しいことを言います。以前は、あんまり個人に負荷がかからないように、やんわり言っていましたが、個人として何らかのポジションについた以上、この先の人生においても、そのポジションを自分なりに全うしたいというプライドにきちんと対応することが指導だと考え直したからです。

もしかしたら、「坪井先生(呼び捨てかも!)、嫌なこと言う!」って悪口を言われているかもしれないけど、子どもたちが成長するなら、そんなの平気になりました。

実際には、日に日に真剣に「直すところがあったら言ってください」と言ってくるようになりました。みんな、最初に指摘されるのは嫌かもしれないけど、それによって自分が高められるってことを知るんだよね。期待されて伸ばしてもらう方が、いっときのショックよりずっと満足感が高いということも知るんだよね。

もうひとり、自分のクラスが終わってから2時間もわたしのことを待っててくれて、「生まれつきのバリトンボイスで、すごく目立ってしまうから合唱には向いてないと思うけど、思い切り歌いたい。どうしたらいいですか」と相談を受けました。

「歌は好きですか?」と聞いたら「好きです」と即答したので、だったら、と今からできることをアドバイスしました。その上で、「もしかしたら合唱では馴染みにくい声なのかもしれないけど、アカペラグループなんか入ったらものすごく重宝されるから、やってごらん。それから、自分の声に似ている歌手の歌をいっぱい聴いて、活かし方や歌い方を真似するといいと思う」と伝えました。

こうやって、混沌とした「自分って何?」という思春期に、合唱って、すごく良い気づきの場にもなると思いました。

 

わたしも、毎年、勉強させていただいて、ようやく分かることがいっぱいあります。