炎の中の母親

 

子どもは母親を愛している。

理由も損得も条件もなく。
その無償さ加減は、親の比ではない。

 


母親が無償の愛だといって、自分の何もかもを犠牲にして、必死で「家」というものを作り上げる。
生まれた子どものために。

 

我慢に我慢を重ねているうちに、自分のやりたいことが見えなくなり、好きなものが分からなくなり、喜びも楽しみも悲しみも「これがきっとそうなんだろう。」というものだらけになっていく。

 

いつの間にか、子どもの表情を見ることを忘れる。
でも、いつから忘れているのか記憶にもないほど無意識だから、子どもの表情を見ていないことにも気づかなくなる。

 

もう、オムツを替えなくても、ミルクをあげなくても、子どもは自分の足で歩いているのに、そのことを忘れ、「子どものために」必死でミルクを作り、オムツを買ってくる。

 

「そろそろ準備ができたから。」と、子どもは反抗を始め、家から出ようとする。
自分の足で、自分の人生を歩むために。

 

そのまま行かせてあげれば、ある意味、子育ては成功だったのだ。

お互いに後味の悪い思いをするだろうが、親子なんだから、いつか必ず分かり合え、やり直せる日は来る。


それなのに、子どもが出て行こうとして初めて、顔を上げ、必死の形相で、

「私があなたのために必死で作り上げてきた、この「家」を、なんだと思ってるの!」

とすがる。


子どもには、もう、役目を終えて、燃えさかる炎に包まれた「家」だ。

 

「お母さん、その家はもう、燃えているの。
わたしたち、次へ移らないと。」

 

子どもは出て行こうとするのに、母親には炎が見えないので、火傷しながら、咳き込みながら、真ん中にあぐらをかいて居座る。

 

「お母さん、お母さん!
燃えているのよ、早く、逃げよう!」

 

子どもは必死で、次のステップへ進むことを提言するけれど、母親には熱さの原因が分からないので、逃げる様子もない。


それどころか、

「そっちに幸せはない。
すべてはこの「家」に用意してあるんだから!」

と、子どもが逃げることも引き止める。

 

 

すると、優しい子どもほど、親のことを理解している子どもほど、悲しいほどにせつない微笑みを浮かべ、炎の中に戻ってしまう。


このままだと死んでしまうことが分かっていて、でも、動こうとしない母を見捨てることができず。

 


そんなにも、子どもは母親を愛している。

 


その愛が、自分の比ではないことを知り、母を蹴倒してでも自立させてあげることが、子どもを産んでからの母親の役目だと私は思う。

 

すなわち、

「だいじょうぶ、あなたがいなくても私は生きていく。
自分の足で燃えさかる炎から逃げ出すよ。

私への愛情があるなら、あなたは自分の足で逃げなさい。」

と、安心して見捨てさせてやることだ。


子どもと折り合いが悪く、とてもじゃないけど愛情を確認し合える関係でないならば、いっそのこと、「こんな家、二度と帰るか!!」って捨て台詞を吐かせて出させてやった方がいい。
それもひとつの親子の形だろう。


もう必要のない、オムツとミルク缶に囲まれ、炎に包まれた家の中で、勘違いに安心しきって死んでいく母親を、涙を浮かべながら、頬をなで、すべて承知の上で一緒に死んでいく、それが子どもの愛情だ。

 

「子どものために」「子どものために」と、周りが見えなくなった愚かな母親と、分かっていて運命を共にする。

 

それほどに深くて無償の愛情をいただいていることに責任を感じて、生まれた直後から、日々、引き算をして、整理をして、処分をして、捨てて捨てて、何も負わせずに自立させてやる、それが親の役目だと、私は思う。